『風立ちぬ』について
お題:「冬」
冬、シンシンと降る雪、破損された肺、サナトリウム。
宮崎駿監督の引退作『風立ちぬ』を観た。
恐怖に似たものを感じた。ギラッと鈍い恐ろしさ。
純愛?これは純愛などでは決して無い。
二郎は菜穂子を愛してさえいないのだ。
今までのジブリ作品なら、登場人物の目的と、愛とが軌を一にするような構造があった。
『風立ちぬ』では表面上は二重構造として存在しているが、それは階層的な構造である。
愛が、目的に抑圧されている。否、排反的であればまだ葛藤や決定が描かれるはずだが、よもやそれすらない。二郎にとって第一義的に「飛行機」が存在し、他のすべては下層構造なものである。
さらに言うなれば、二郎は「飛行機」すら愛していないかもしれない。
二郎が言う「飛行機」の良さはひたすらに「美しい」というオーソリティーのみによって、保持される。ジャン・ジュネの言葉を引用しよう。
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すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それだけですでにそれが美しい行為となることが決まる。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起させるならば、その行為は美しいのだ。ときとして、下劣とされている行為を我々が思い描くときの意識が、ついでそれを表示するときの表現の強烈さが、我々を否応なく歌に駆りたてることがある。もし、裏切りが我々を歌わせるとすれば、それは、それが美しいからにほかならない。泥棒たちを裏切ることは、単に倫理の領域においてわたしを確立するだけでなく、男色の世界においても自己を確立することだとわたしは考えたのだった。強者となることによって、わたしはわたし自身の神となる。わたしは支配するのだ。
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果たして、「飛行機」の行為は「美しい」ものだっただろうか?
劇中に飛ぶ飛行機は、夢の飛行機から紙飛行機に至るまで全てぐしゃぐしゃにされ、廃棄される。その廃棄のされかたは、およそ「美し」かっただろうか?
「美しさ」が劇中にあるとすれば、それは二郎のしなやかでしたたかな狂気以外には存在しないだろう。
二郎の軽薄さ、親族すらも感じる軽薄さ。
彼は菜穂子を愛していない。
もし本当に愛しているならば、全てを捨て去り瞬間に生きるという病こそ、愛であり、美しさであり、狂気なのだ。
そうでなければ、それは愛ではなく、ただのエゴイズムの別名である。
彼は捨てたか?
彼は菜穂子の外在的な「美しさ」に対して所有の欲望を湧かしたに過ぎない。
その証拠に、序盤に彼が思い描いたのは菜穂子ではなく、その使用人であった。
葛藤を感じないこと、そこに我々は彼の狂気を見る。
彼は貧しい子供を憐れみ、シベリアを上げようとした。
彼は菜穂子を見舞いすらもせず、片側に眠りを抑えて待つ死の床にある女を横目に図面を書く。
彼は最終的にピラミッド、つまりヒエラルキーの階層構造がある世界を望んだ。
彼の葛藤は描かれないのではなく、描けないのである。
なぜならそもそもに彼はまるで葛藤などしていないのだから。
しかし、そう考えるとギョッとさせられる。
自分もこのような葛藤がないのではないか?
漫然と、自分より貧しいものを憐れみ、労働に邁進し、ピラミッド構造の中に埋没してしてはいないか?
ーーー「地獄かと思いました。」
最後に主人公であるとされる二郎は述べる。
彼は地獄を淡々と闊歩する。
彼はその地獄を自らに引き寄せはしない。恐ろしい狂気。
ーーー「生きて。」
彼は最後まで己の意思で生きようとしていないのではないか?
自らの都合でのみの菜穂子の口を使っての「生きる」という指針でないか?
原文はポール・ヴァレリーの詩の一部ではあるが、非人称のilはこの場合自戒的なilである。「生きねば!」。
劇中にドイツ人(ヒトラーを彷彿とさせる面持ち)が出てくる。
「ニホンジン、ワスレル。」
衝撃的である。今でも逆卍が禁止されているドイツを考えるとこの言葉は強烈だ。
現代においても痛切な警句。先の震災の「絆」と「忘却」とは同義語であり、全てが無かったことにされるのだ。
この映画は、技術者の夢想でもなければ、純愛でもない。
恐ろしく警句的な映画だ。
なぜなら、二郎はとても凡人のように描かれ(庵野の中性的で無感動な声!)、およそ天才的な技術者ではないではないか。
繰り返しになるが、二郎は菜穂子を愛してなどいない。そして哀しいまでに菜穂子はそれを知っていた。だからこそ、彼女は消えたのだ、まるで存在しなかったかのように。
蛇足だが、この映画を貶してる訳では決して無い。むしろ「美しい」映画だ。
散文的になってしまった。生きねば。
文筆:a
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