『スプリング・ブレイカーズ』について
お題:「春」
tです。お題は春ということで、「スプリング・ブレイカーズ」という映画のことを書きます。2013年公開、監督はハーモニー・コリン。
〈粗筋〉スプリング・ブレイクはいわゆる春休み。主人公の女子大学生四人組は学生生活最後の春休みをサイコーなものにしようと、ダイナーを襲い強奪した金で西海岸に繰り出します。昼夜を問わずビーチで遊びまくる日々の中、若者たちは薬物使用で一斉検挙されてしまいます。留置場で過ごすことになりテンションサゲぽよな女子四人の身元引受人に、謎の男「エイリアン」が名乗り出、裏社会のボスである彼の導きで四人組はよりディープな犯罪に手を染めて行きます。
前半、スクリレックスのド軽薄ブロステップに乗せて、浜辺でパイオツ放り出し酒・ドラッグ・セックスに溺れまくる女子たちの乱痴気騒ぎは思想ゼロ(むしろマイナス)で観てるこっちの頭まで軽くなるような仕上がり。スローモーション・ループを多用した高解像度の下品な映像美は、映画というよりミュージックビデオのような質の刺激。どこか強迫観念じみた「楽しさ」の洪水。
そんなアゲアゲな空気からは一転、スカーフェイスに憧れるギャングスタ・エイリアンが登場してからの後半は、その得体の知れない邪悪さに蝕まれるように濃厚なイヤ感が画面を支配していきます。屈強な男たちを束ね、寝室に無数の銃器を飾り、妙に懐っこい笑顔からは装飾が彫り込まれた前歯が覗く彼は、四人を見初め仲間に引きずり込んでいきます。
春は変化の季節です。新しい出会いの予感に胸躍らせる人がいる一方で、変わることを恐れる人も、今ここにとどまっていたいと願う人もいます。そういった人々に、春のあのむせかえるような芽吹きの匂いは痛いくらいの焦燥感を植え付けます。
退屈な未来のことなど一瞬たりとも考えたくない。絶えることのない刺激の中で永遠に踊り続けていたい。青春の終わりを派手に打ち上げるだけでは飽きたらなかった彼女たちと、トニー・モンタナにはなれないまま終わりの見えない非日常の中を生き続けていたエイリアンは、春にうなされ永遠を希求したモラトリアム人間たちの「いままで」と「これから」の姿であり。退屈な未来も永遠に続く現在もどちらに転んでもその先は虚無だよと示す「これから」は、しかし「いままで」たる彼女たち(それはかつての彼の姿であったかもしれない)の捨て鉢なエネルギーによって一応の救済を得るのです。最もラストシーンが示唆するように、永遠の現在を選びとった彼女たちのその後が幸福な刺激に満ちたものであるはずもないのですが。
春は嫌な季節です。何かの訪れが何かが去ることで補完される限り、疼くような寂しさと焦りはこの季節につきまとい続けます。春が何より辛いのは、あらゆる開花の気配が、去ること・終わることへの憂鬱を憂鬱として抱かせてはくれない所です。始まりの季節の本質は躁と強迫です。
前半のアゲアゲな乱痴気騒ぎにも、後半のサグサグな裏街道漫遊記にも、刹那の感傷を封じ込めようと虚勢を張る時の胸苦しさが涙の膜のように薄ーく貼り付いていて、ああこれは正しく春の映画だと感じた次第です。
上に貼った動画を観ての通りエロいというより色々と下品な映画なので人は選ぶかと思いますが、春が苦手な人には割とお勧めです。女の子たちはみんなカワイイ。体型もボテッとしてて親近感湧く。でも最強のガールズムービーっつう惹句はちょっと詐欺だよ。
文責:t
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『風立ちぬ』について
お題:「冬」
冬、シンシンと降る雪、破損された肺、サナトリウム。
宮崎駿監督の引退作『風立ちぬ』を観た。
恐怖に似たものを感じた。ギラッと鈍い恐ろしさ。
純愛?これは純愛などでは決して無い。
二郎は菜穂子を愛してさえいないのだ。
今までのジブリ作品なら、登場人物の目的と、愛とが軌を一にするような構造があった。
『風立ちぬ』では表面上は二重構造として存在しているが、それは階層的な構造である。
愛が、目的に抑圧されている。否、排反的であればまだ葛藤や決定が描かれるはずだが、よもやそれすらない。二郎にとって第一義的に「飛行機」が存在し、他のすべては下層構造なものである。
さらに言うなれば、二郎は「飛行機」すら愛していないかもしれない。
二郎が言う「飛行機」の良さはひたすらに「美しい」というオーソリティーのみによって、保持される。ジャン・ジュネの言葉を引用しよう。
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すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それだけですでにそれが美しい行為となることが決まる。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起させるならば、その行為は美しいのだ。ときとして、下劣とされている行為を我々が思い描くときの意識が、ついでそれを表示するときの表現の強烈さが、我々を否応なく歌に駆りたてることがある。もし、裏切りが我々を歌わせるとすれば、それは、それが美しいからにほかならない。泥棒たちを裏切ることは、単に倫理の領域においてわたしを確立するだけでなく、男色の世界においても自己を確立することだとわたしは考えたのだった。強者となることによって、わたしはわたし自身の神となる。わたしは支配するのだ。
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果たして、「飛行機」の行為は「美しい」ものだっただろうか?
劇中に飛ぶ飛行機は、夢の飛行機から紙飛行機に至るまで全てぐしゃぐしゃにされ、廃棄される。その廃棄のされかたは、およそ「美し」かっただろうか?
「美しさ」が劇中にあるとすれば、それは二郎のしなやかでしたたかな狂気以外には存在しないだろう。
二郎の軽薄さ、親族すらも感じる軽薄さ。
彼は菜穂子を愛していない。
もし本当に愛しているならば、全てを捨て去り瞬間に生きるという病こそ、愛であり、美しさであり、狂気なのだ。
そうでなければ、それは愛ではなく、ただのエゴイズムの別名である。
彼は捨てたか?
彼は菜穂子の外在的な「美しさ」に対して所有の欲望を湧かしたに過ぎない。
その証拠に、序盤に彼が思い描いたのは菜穂子ではなく、その使用人であった。
葛藤を感じないこと、そこに我々は彼の狂気を見る。
彼は貧しい子供を憐れみ、シベリアを上げようとした。
彼は菜穂子を見舞いすらもせず、片側に眠りを抑えて待つ死の床にある女を横目に図面を書く。
彼は最終的にピラミッド、つまりヒエラルキーの階層構造がある世界を望んだ。
彼の葛藤は描かれないのではなく、描けないのである。
なぜならそもそもに彼はまるで葛藤などしていないのだから。
しかし、そう考えるとギョッとさせられる。
自分もこのような葛藤がないのではないか?
漫然と、自分より貧しいものを憐れみ、労働に邁進し、ピラミッド構造の中に埋没してしてはいないか?
ーーー「地獄かと思いました。」
最後に主人公であるとされる二郎は述べる。
彼は地獄を淡々と闊歩する。
彼はその地獄を自らに引き寄せはしない。恐ろしい狂気。
ーーー「生きて。」
彼は最後まで己の意思で生きようとしていないのではないか?
自らの都合でのみの菜穂子の口を使っての「生きる」という指針でないか?
原文はポール・ヴァレリーの詩の一部ではあるが、非人称のilはこの場合自戒的なilである。「生きねば!」。
劇中にドイツ人(ヒトラーを彷彿とさせる面持ち)が出てくる。
「ニホンジン、ワスレル。」
衝撃的である。今でも逆卍が禁止されているドイツを考えるとこの言葉は強烈だ。
現代においても痛切な警句。先の震災の「絆」と「忘却」とは同義語であり、全てが無かったことにされるのだ。
この映画は、技術者の夢想でもなければ、純愛でもない。
恐ろしく警句的な映画だ。
なぜなら、二郎はとても凡人のように描かれ(庵野の中性的で無感動な声!)、およそ天才的な技術者ではないではないか。
繰り返しになるが、二郎は菜穂子を愛してなどいない。そして哀しいまでに菜穂子はそれを知っていた。だからこそ、彼女は消えたのだ、まるで存在しなかったかのように。
蛇足だが、この映画を貶してる訳では決して無い。むしろ「美しい」映画だ。
散文的になってしまった。生きねば。
文筆:a
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『今夜ひとりのベッドで』について
お題:「秋」
四季のうち、春・夏・冬を題材にした物語は数多くあるが、秋をがっつり題材にした物語というと少ないような気がする。そこで、秋を感じられるという程度の作品を紹介したい。2005年10~12月にTBS系列で放送されていた『今夜ひとりのベッドで』(脚本:龍居由佳里、演出:生野慈朗など)というテレビドラマだ。
あらすじ:主人公(本木雅弘)は妻(瀬戸朝香)と幸せに暮らしているが、なかなか子供が出来ずどこかですれ違いを感じている。本木雅弘は腹違いの弟(要潤)の結婚式に出席するが、弟は新婦(奥菜恵)を置いて別の女(サエコ)と逃げてしまう。本木雅弘は奥菜恵に同情して色々と世話を焼くうちに、彼女に惹かれていく。一方、サエコに振られた要潤は瀬戸朝香に惹かれていく。加えて、本木雅弘の親友(佐々木蔵之介)も、本木雅弘と結婚する前から瀬戸朝香に恋心を抱いていて、2人の夫婦関係が危うくなるのをきっかけに彼女にモーションをかけ始める。
あらすじだけ見ると、ドロドロした昼ドラのようだが、実際にはかなりカラッとしたドラマだ。妻を捨てて別の女のもとに行く主人公を悪役として描くこともなければ、夫に逃げられる妻を悲劇のヒロインとして描くこともない。彼らのゴチャゴチャした色恋沙汰をどこか可笑しみを含ませて描いている。
なぜこのような描き方がされているのか。それはこのドラマの根底に結局人は孤独であるという考え方があるからだ。恋とは、人が寂しいから他者を求める、ただそれだけのこと。相手のことを思いやるとか相手のために何かをしたいとか、そんな感情は副次的なもので、第一義的に恋とはその程度のことなのだとこのドラマは訴えているのではないか。だから、妻を捨てて別の女のもとに行く男に批判的な視線を投げかけることはなく、むしろ自分の気持ちに正直に従った男をどこか優しい視線で見つめるのだ。彼は寂しいから他者を求めた、ただそれだけのこと。人間ってその程度の存在でしょう。そんな風に恋における人間の情けなさをコミカルに描いて肯定してくれるのだ。
中学3年生の僕の心にキレイに突き刺さったこのドラマ、http://www.turen5.com/vplay/417608.htmlのページで全10話を見ることが出来るので、興味を持たれた方は是非。ちなみに、キャストの地味さが響いたのか、放送当時の平均視聴率は6.6%。悲しい。いつか評価される日が来ることを願う。
文:i
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